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N・M

私たち50人の出産体験記/シオン発行より


 私は今、3才半になる娘と主人との3人で毎日をあわただしく騒々しく、時には怒鳴りながら、時には涙を流しながら、(その涙もうれし涙だったり、悲しい涙だったりいろいろですが)暮らしております。娘はこの4月から近くの幼稚園の年少さんに通っております。2月生まれなので、3才になってすぐでしたから、少々かわいそうでもありましたが、ひとりっ子ですし、私自身にとっても子どもにとっても、少し離れることも必要かと、思い切って入園させました。長い夏休みもやっと終わり、娘が幼稚園へ行っている間に、やっとひとりになり今ペンを握っています。

 私の場合、まず妊娠するまでの苦労話から書いてみたいと思います。

 私の母がとても子ども好きでしたので、私が高校、大学の頃は、家に近所の小さな子ども達がいつも遊びにきており、私も自然と子ども達となれ親しみ、いっしょに遊んだり、出かけたり、お風呂に入れてあげたりと、保母さん気取りでした。「こういう子ども好きの人って案外、結婚したら子どもに恵まれなかったりするのよネ」なんて冗談言われてたのが、いざ本当に結婚してみたら、もちろんすぐにでも子どもが欲しかったので、体温表などというものを初めて付けてみましたら、見本例の体温表とは何だかずいぶん違うのです。

 きちんとした二層式にはなっておらず何となくだらだらとした体温表で、排卵日も生理になる日も全くわからないのでした。これはちょっと変なのかしらと思いつつ、結婚して半年目にちょっと出血したので病院へ体温表を持って行き、それから、私の長い不妊との闘いの日々が始まりました。(この不妊との戦いの5年間は、本当に長く苦しい日々で、書き出すと切りがないのでここではずっと短くまとめて書きますが、本当にあの悲しみ、苦しみは当人にしかわからないものだと思いますので、もし悩んでらっしゃる方がいれば、私の体験ですが参考にしていただきたいと思います)

 病院も市立病院(茅ケ崎市立病院)と横浜の総合病院(横浜警友総合病院)と2か所行きました。あらゆる検査(もちろん主人も)をしましたが、これといった悪いところもなく、ただ少しホルモンのバランスが悪いのでしょうということで、薬を飲んだり注射をしたりしました。

 結局横浜の総合病院の方に5年近く通ったわけですが、その間、東洋医学(漢方)を取り入れた病院にも通ってみたり、人に良いと言われる事は全てやってみました。

 とにかく子どもが欲しかった。

 年をとってから後悔したくなかったので、自分で一応35才までと区切りをつけ、それまではとにかく頑張ってみて、もしダメだったら別の人生を考えようと思っていました。でも今ふり返ると、あまりにも頭の中から生活全てがその事でいっぱいすぎて、かえってよくなかったのかもしれません。

 そんな時、不妊の人のヨガ教室を知り、通ってみることにしました。病院や漢方とも併行して通っておりましたので結局何が決定的だったのかはわかりませんが、めでたく妊娠しました。妊娠初期は病院の健診も1か月に1度しかありませんでしたから、ヨガに週1度通い、同じようにお腹が大きくなっていくお友達と情報交換したり、先生のお話を聞くのは、とても楽しみでした。

 また、先輩の方々の出産の時のお話や、赤ちゃんが生まれてからのお話、「こういう時にはこうすればいい」というお話をたくさん聞かせていただいておりましたので、本当に何の不安もなく出産を迎える事ができました。また、幸いな事に主人の妹が私よりほぼ1年早く女児を出産しておりましたので、自分自身の妊娠がわかってから約8か月、いつも姪の様子を見ながら、妹にいろいろな事を教えてもらえたのもとてもためになりました。

 病院は不妊で通っていた横浜の総合病院に妊娠してからも通っておりましたが、実家の母が体調を崩したので、お産をする病院は自宅近くが良いかと、7か月の時、市内の総合病院(茅ケ崎徳州会病院)にかえました。もう一つ、横浜の総合病院が無痛分娩だった事です。やはりお産はなるべく自然に、そして赤ちゃんは母乳で育てたいと思っていましたので、この二つの望みが叶う病院を選びました。

 病院主催の母親学級にも通い、入院にあたって用意する物や、注意事項等細かく助産婦さんにお話を聞けましたし、分娩室、病室も見せていただけて良かったです。こうして順調に、快適にすごしていたマタニティでしたが、8か月の終わり頃だったでしょうか、突然、逆子になってしまい、そのまま臨月までもとに戻りませんでした。しかし幸いな事に赤ちゃんはお腹の中で、お尻が下で足をあげてVの字の形でおりましたので、先生も、何とか自然分娩でと、骨盤の大きさなどの検査をしてくださり、オーケーがでました。病院によっては、逆子だったり、一人目帝王切開だと、無条件で帝王切開にされてしまう事があるそうですから、病院を選ぶ時はそういう事もチェックした方が良いと思います。

 お産そのものは、あまり優等生とはいえませんでした。2月17日の予定でしたが、11日から生理時のような出血が続き、14日の健診では、1週間以内には生まれるでしょうとのお話でした。その晩から弱い陣痛が始まりました。病棟に電話を入れ助産婦さんに聞きましたら、家が近いので7分切ったら来るようにと言われました。ところが、なかなか7分を切らず、一睡もできず時計とにらめっこで夜が明けました。朝一番で主人に付き添ってもらい病院へ行き、入院しました。

 ところが一向に陣痛の間隔は縮まらず、前の晩寝ていないのもあって疲れきってしまい、食事はもちろん口にできず、水さえも吐いてしまうようになり、もうグッタリしてしまいました。これではお産する力がなくなってしまうからと、夕方、栄養剤の点滴をしましたが、あまり回復せずとうとう4時すぎ、陣痛促進剤を点滴にまぜたら、じきいきみたくなり、分娩台に上り、5時半過ぎに娘を出産しました。逆子は陣痛微弱になりやすいというのは、後から知りました。結局私の場合、よくいう腰がメリメリ割れるような痛さもなかったので、主人に腰をさすってもらうこともありませんでした。出産中、暑かったのと、足がつかれて、ふくらはぎがつりそうだったのを覚えています。病院は母乳育児を薦めておりましたので娘は2,568グラムと小さかったのですが、ミルクは与えませんでした。

 しかし、母乳も胸はパンパンに張っているものの乳首が偏平だったのでなかなか出てこなくて、毎日助産婦さんが病室へ来て1日に何回も乳首をマッサージしてくださり、そのお陰で、4日目に開通しました。開通するまでは、本当にわずかのミルクと糖水を与えただけでした。

 その後1才9か月で断乳するまで、母乳のみで育てることができました。子どもは、よく飲みよく眠り、2か月で産まれた時の体重の倍の標準体重となり、比較的育てやすい子でした。それでも私にはもちろん初めての子ですから必死でしたし、背中におんぶして、台所で立ったまま食事をしたこともありました。幸いなことに、同じマンションに娘より半年早く産まれた女の子がふたりいて、ふたりとも第一子ではなかったので、お母さん方からもいろいろと教えていただけたし、1年前に産まれた姪も近くにいましたので、ひとりで悩むこともありませんでした。今でもそうですが、育児は本当に大変です。

 でもたえず自分の子だけを見ていることは、母親にとっても子どもにとっても不幸なことだと思います。積極的に外へ出て、他の子どもを見て、その親を見て、どんな怒り方をするか、どんなほめ方をするかなどいろんな親子を見ることはすごく勉強になると思います。我が娘も今3才半。反抗期のまっただ中で、爆発することもしばしばですが、寝顔を見てると全て忘れてしまう感じです。主人と私のふたりの子どもですから、主人も積極的に育児に参加してくれてます。やはり父親とのかかわりというのもとても大切だと思います。主人は今日は1日どんな様子だったか、帰宅後開口一番に聞きます。

 忙しいと朝も夜も会えないこともありますが、休みの日は、子ども中心にめいっぱいつきあっています。今は、ビデオカメラも写真もあり、子どもの成長記録は克明に残せますが、日々の細かいことって案外忘れてしまうので、私は、手帳に毎日1行か2行程度その日の行動とか、おもしろい(ことを言った)こととかを走り書き程度に残しています。

 育児日誌となると大げさで負担にもなりますが、メモ書き程度だと気分的にも楽で、毎日夜チョコチョコッと書けていいですよ。

 とにかく、楽しいことばかりでは決してありませんが、常に5年後10年後、その先の娘を想像しながら、自分をも叱咤激励しながら、毎日奮闘しています。

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