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27

  

O・Y

私たち50人の出産体験記/シオン発行より


 私は長い間回避していた問題に再び向き合うことになってしまった。

 最初の結婚で、私は子宮外妊娠を経験し、右側卵巣と卵管を摘出、その時のショックで妊娠恐怖症になり、その後、問題を回避したまま結婚生活に終止符を打った。それから7年、恐怖のほとぼりが覚めた頃、私は再び結婚することになった。妊娠を恐れながら、とりあえず私は病院に行き、もう片方の卵管に異常がないことを確認した。にもかかわらず、結果は同じだった。再び悲劇が繰り返され、左側の卵管を胎児と共に摘出され、恐れたとおり、私は永久不妊を宣告された。

 2度目の手術の翌朝の新聞に体外受精の記事があった。               

「世界で初めての体外受精児、ルイーズちゃん姉妹のルイーズちゃん10才の誕生日」

という内容の記事だった。私には卵管はないが卵巣は片方残っているので、卵管の役割を人間がする体外受精とは、正に私のためにあるような医療手段だった。こういう手段があることを知ってはいたが、自分とかかわりあいになろうとはこの時までよもや考えもつかなかった。そして、それは私につきつけられた終わったはずの問題そのものだった。

『子どもを持つべきか持たざるべきか』

 当時、体外受精の成功率は、日本では10%もなかった。安全の保障もデータも殆ど何もなかった。何よりも、これ以上痛い目に遭うことはもう2度といやだった。そうまでして子どもを産む必要などあるのだろうか。百歩譲ってできたとしても流産したらどうする、産まれたとしてもいつまで生きられるのか、途中で死んだら……私はありとあらゆる情報を求めたが、答えはなかった。消極的な解答を探しながら、実をいうと、私はその後折にふれその記事を読み返していた。ルイーズちゃんの両親の「この子達がいなかったら今の私達の幸せはなかったでしょう」という言葉が、その後の私の取るべき道を示唆していたのかもしれない。

 そして次第に、「そうだ、私は不妊になったのではなく、体外受精を体験できるというめったにないチャンスを与えられたのだ。ポジティブシンキングで行こう!」「求めよ、さらば与えられん」という言葉もあるではないか………。私はそう思い始めた。というより思うようにした。するとまるで奇跡のように、その後次々と私の前に幸運が開けていった。

 紹介された病院は、家からバスと電車で1時間半程の所にあった。不妊外来のある大学病院ではなく、ごく普通の市立病院の産婦人科だった。が、私は知らなかったが、ここは知る人ぞ知るこの病院のこの医師に出会えたことこそ、私にとって幸運中の幸運だった。私達夫婦はさんざん待たされたあげく、「はっきり言って成功率は5%もないよ」と何のなぐさめにもならない言葉と簡単な説明を、その日の外来時間に聞き出すことができた。そこで初めて私は、一般の病院で不妊治療を続けることがどれほど大変で忍耐がいるものかということを思い知らされたのだ。

 気の遠くなるような時間の浪費、そして不妊に悩む人がどれほどたくさんいるか。その時私は31才だったが、不妊患者の平均年令は37才、多くの人はタイムリミットのため、ドロップアウトしていった。彼女達のことを思えば、私の不幸など何ほどのものだったというのだろう。

 次に私がした事は、ヨガ教室に通い始めた事だ。もともと虚弱体質で運動音痴の私は、以前からヨガで体調が良くなるということを知っていたからだ。電話帳で不妊のためのヨガ教室という所を見つけ、週1回通った。私の場合、ヨガで妊娠できるようになる訳ではないが、せめて体調を整えて体外受精に臨みたいと思ったのだ。不妊教室とマタニティ教室の両方があるそのヨガ教室に通って同じ悩みを持つ人と話ができることは、ストレス解消にとても役立った。そして、妊娠・出産した人の話を先生から聞くことで励みにもなった。運動療法、食事療法と合わせて精神面をもサポートしてくれるような所は、今ほどマタニティ教育が重視されていなかったこの頃、ここが首都圏でも唯一の場所ではなかったかと思う。ここにもまた幸運の扉があった。「たたけよ、さらば開かれん」という言葉もあったっけ。

 医師の指示通り、半年後に再び病院を訪れた。不妊治療最前線の驚くべき実態………。それは午前7時、産婦人科外来の前にすわる40〜50人の女性達の姿だった。私達は整理券を取りその後順次超音波診断を受ける。私のような先端治療を受ける不妊患者は、約2週間毎日通院し、注射と超音波診断を受け5日間の入院。そして2週間後結果が現われるまで毎日投薬ないしは注射を受ける。

 この間約1か月、事情によっては途中で中断することもたびたびあるし多少の副作用もある。首尾よく完了しても、妊娠しなければすべてが水の泡となり、また一からすべてやり直し、整理券を取って並ぶことになる。それもすぐとは限らず人によっては半年から1年後。不妊患者の予約でいっぱいだからなのだ。沖縄や九州から来て直前になって中断となり途方に暮れている人もいた。それでも皆割合明るい様子だったのは、一つには医師のパーソナリティによるものが大きかったように思う。

 ある朝遅れて来て、悪い悪いと頭をかく先生の声が廊下に響いた時、誰もがそう思った。私はその後副作用で入院したり、注射にだけ通って中断したり、間にヨガに通ったりを繰り返しながら治療に専念した。運良く8か月の間に3回受けることができ、「今度は大丈夫、絶対妊娠する」という医師の言葉通り3回目に妊娠した。

 その後は全てトントン拍子だった。流産の時期もクリアし5か月目に入ってからは、念願のマタニティヨガクラスにも通った。つわりもおさまり、せり出したおなかがうれしかった私は、夫とふたりでどこにでも出かけた。ヨガの先生に5か月過ぎれば大丈夫と太鼓判を押されていたので、早産の心配などまるでしなかった。ヨガ教室に通っていなければ、10か月寝たきり妊婦だったかもしれない。お産に自信のない人には妊娠前からの準備をお薦めする。

 でも、そのヨガ教室に通うにも片道1時間、行きも帰りも電車や地下鉄を乗り継いで予定日の1週間前まで通った私は、今思えば本当に体力があった。医師が聞いたら驚いたと思うが、その後しばらくしてその医師は開業のため九州に行ってしまった。ここでも私は非常に運が良かった。そして予定日の3日前、健診に通院していた聖路加国際病院で3,200グラムの男の子を産んだ。もちろん自然分娩で。

 通常はここで万事めでたしめでたしとなるところだったが、私の場合第三幕がこのあと続くことになる。文字通り試行錯誤の育児を重ねる内「兄弟」という問題にどうしてもつきあたったのだ。でも、いくら前回たった3回で簡単にできたからといっても、その水面下の私の気力は並大抵のものではなかった。すぐにまた病院へ行こうとはとても思わないし想像もつかなかった。

 が、幸運は向こうからやってきた。たまたま家から近い大学病院の産婦人科の医師と話す機会があったのだ。それでも今度は2人目とあってはさすがに気合いが入らず、二、三度病院へ様子をうかがいに行ったものの足踏み状態だった。でもやがて機が熟す時が来た。夫が積極的だったこと。子どもが「赤ちゃん赤ちゃん」とうるさかったこと。入院中の子どもの預け先があったこと。疲れぎみで不調だった体の状態が良くなったこと。

 そして決定的だったのは、担当医師に恵まれたことだったろう。先端医療も数年間で全国に普及し、今やどこでも体外受精は普通の不妊治療になっていたこともある。成功率も多少はUPした。必要なのは気力と体力だ。何もためらう理由がなかった。その他諸々のリスクには目をつぶった。

 地球上には薬ひとつ注射1本満足にない所が今だにたくさんあるというのに、私は高度医療の恩恵に浴しているばかりか医者まで選べる。私は恵まれている。「成せばなる、成さねば成らぬ何事も」とまあこんな調子で着々と準備を進め、たった1回の治療で幸運にも再びあこがれの妊婦姿となった。こうして私の妊娠出産ドラマは、事態の深刻さとは裏腹に、どこか喜劇的な様相を呈しながら、それでいて常に感動的なままその幕を閉じたのである。

 現在38才、5才の男の子と1才の女の子の母となった私は、相も変わらず試行錯誤の育児を重ねている。

 『子どもを持つべきか持たざるべきか』…………。

 それは表面的には二者択一の形をとりながら、実は子どもの有る無しにかかわらず、「生きるとは何か」という古今東西普遍のテーマを含んでいたのではあるまいか……と一凡人の私は答えの見つからないまま育自をも重ねている。

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