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藤原智子

私たち50人の出産体験記/シオン発行より


 担当医の先生からの電話で「トモコ!!ユーアープレグナント、コングラッチュレーション」という声に、嬉しさと驚きで体が震えてきたのが、今からほぼ2年前、ついこの間の事のような気がします。夢にまで見たマタニティウェア、それが着られた時は、たとえようのない幸福感に胸がどきどきしました。

 ユダヤ人の住むイスラエルで不妊治療を出来たことは私にとって幸運でした。子孫を繁栄させる事を第一に考える国民性、大親友の強いはげましが、私を体外受精に踏み切らせたのだと思います。

 結婚13年、子宝に恵まれず、通院し排卵誘発剤(人工的に月経周期を作るために使われる薬)の注射、卵胞を取り出す手術、受精卵を戻してからの安静にしていなければならないこと、不安感・絶望感にも負けず妊娠までたどり着いたのは私にとって大きな喜びでした。辛い時、主人の協力が上手に得られない時、治療を何度もやめようと思いましたが、振り返りますと必死に全力投球して良かったと思っています。

 異国の地で、言葉のハンディもありながらひとりで治療を始めたのは不安でしたが、妊娠後の健診では反対に主人と友人が一緒の機会の方が多く、一緒に超音波を見たり、心音を聞けたので安心感と充実感があり、良かったと思います。その後すぐに主人がグァム島へ転勤が決まり、妊娠初期の異動は危険なこと、羊水検査を受ける為に、イスラエル人の親友宅にいそうろうをして、イスラエルで健診を受けていたのですが、妊娠8か月の時実母の体調が悪い事を知り、ホームシックも手伝い日本に帰って出産となりました。

 ところで13年間、子どもが授からず、病院での精神的・肉体的ストレス、周囲の人からの圧力では何度も泣きました。不妊通院は、考えている以上に時間がさかれますし、お金もかかるのでほかの事を全部あきらめ、治療に専念するのは大変でした。不妊の原因は私の両方の卵管がつまっていることで、子宮卵管造影の検査では体外受精しか授かる手段がないと言われたのですが、それに踏み切る気持ちにはなかなかなれませんでした。

 出産は予定より早めでした。おしるしが2日前にありその後破水し、午後3時に入院しました。

 破水もあわてずと聞いていましたので、シャワーを浴び、昼食を食べれる程冷静でいられました。産院では子宮口を広げる薬を使用しただけでしたが、分娩台に上がって子宮口全開となっていたという事です。私の陣痛は下腹部の重みから、下腹の強い張りが起こった程度で、腰が強くひっぱられる様な重みを急に感じた後、助産婦さんの掛け声で2度いきんですっと産まれたのです。7時25分、産声を聞いた時は、ほっとし全身の力が抜けました。助産婦さんに娘を見せてもらった時の美しいピンク色の肌は忘れられません。

 助産婦さんに「安産で良かったね」と言われたのを覚えています。新生児室からの赤ちゃん達の泣き声が「自分の子どももいるのだわ」という実感になり、胸がどきどきしました。

 出産後3日目に初めて自分の腕で娘を抱き、必死の授乳、助産婦さんのマッサージで少しずつ母乳も出る様になりましたが、1日に2回は粉ミルクを足していました。時計とにらめっこしながらのおしめのとりかえ、授乳は必死、でも寝不足のつらさを忘れ、娘の顔をよくあきずにながめてばかりいました。

 私の体調も順調で退院時には元の体重に戻りましたし、1か月健診でも問題もなかったのですが、娘が2か月になった時、実母が動脈りゅうを取る手術で入院しました。父は糖尿病のため全盲なので、娘をつれて夫のいるグァム島へ戻らず、母が退院して安定するまで実家に残りました。今、思い出すと前抱っこで娘をつれ、戸田市の病院に通い、父の食事、子どもの世話、家事とよくやってこれたと思います。

 娘が目が見える様になり、表情も日々に豊かになり、私の言う事に反応し「あっ」「うっ」とおしゃべりし始めたこと、寝返りができる様になったこと、ハイハイが出来る様になったこと、声をたてて笑う様になったこと、始めておかゆを食べたこと、一歩一歩の成長は、母の病院への毎日の往復、目の見えない父との生活でどんなにか私の活動力になったか知れません。私がこの子にしてあげられる2倍以上の心が、この子の笑顔からもらえていたのです。お互いにエネルギーの充電をしあっていたとも思います。これは私だけでなく、母にとってはこの子の顔を見ること、父にとってはこの子の泣き声を聞くことが何よりの楽しみだったようです。

 子育ては楽ではないのです。病気の時、夜泣きした時、けがをした時などは、親として辛い思いをします。そんな時、「私の小さい時はどんなだったのだろう?」と考えます。だっこしたり、歌をうたったり、あやして、手をかけて育ててくれただろう両親に感謝しました。

娘が10か月になるまで日本での生活は続きました。主人は2か月に1度娘に会いに来てくれていました。単身でいる主人には申し訳ないと思いながら、親孝行ができたことを主人に感謝しています。母が傍らにいていろいろ聞けたのは、心配症な私にとって幸いでした。精神的にも子どもにだけ心を向けるのではなく、両親に分配されたのは、かえってよかったようです。病院通いは1日のペースを崩してしまった事も多かったのですが、いろんな人に会えた事は、私にとっても、娘にとっても大切な時であったと思えます。

 今、1才4か月、肉体的な成長ばかりでなく、感性がとても豊かになったことは親ながらびっくりさせられます。目にする物、耳にする事、すべてに興味をもち、一つ一つ自分で確かめます。喜怒哀楽がはっきりし、言葉やしぐさで自己表現できる様になりました。 子どもを持つことで親は自分の社会性を広げ、その中で子どもと共に喜びを共有できたら一番と思います。娘とは、人と会う毎に「こんにちは」とあいさつし、きれいな物を見て喜び、楽しい時は大きな声で笑って、「おいしいね」と一緒に食べ、「よかったね」、「ありがとう」と会話しています。

 ちっちゃな身体をベビーベッドから「私の宝物」と抱きあげていた頃から今まで、必死に育児をしてきましたが、私自身の生活態度、感情から感化をうけ、成長していく娘をみていると、子育ての大変さを感じます。

 どんな小さな事にでも、楽しさ、喜びを感じ、素直な心で感謝できる、そんな子どもに育ってもらいたい、そして私も母として女として、そうありたいと思います。

 長い不妊治療、思い返すと辛い事の方が多くありました。何度もあきらめたり、やめた方が心安まるのではと、弱気になりましたががんばり通して本当によかったと思います。

 子どもが授かるまでの13年のあいだに知りあえたヨガの壱伊先生、同じ不妊で悩んでいた友達、イスラエルの親友ルティー、そして病院のスタッフ、沢山の人と出会い、幅広いおつき合いができたことは、私にとって、貴重なものです。とくにイスラエルでの治療、ルティー宅でのいそうろうは、勇気を持って努力してきた私にとってかけがえのない思い出です。子宝に恵まれるには縁にも関係があると思いますが、待っているだけでなく、自分から求めて、あきらめずにいることは大切だと感じました。

 妊娠、出産、育児と女性にとっての大きな変化の中でつまずく事もあります。しかし、どこでつまずいたとしても、必ず役に立つ貴重な体験になると信じていますし、今、私と同じ悩みを持つ方々にもがんばってほしいと思います。私も努力していきたいと思います。

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