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仲里裕子

私たち50人の出産体験記/シオン発行より


 長男の“到”が産まれたのは、暑い8月の太陽のきらめく朝であった。「男の子ですよ」*と産まれたての赤ん ぼうのほっぺを、私の頬にこつんとくっつけてもらったあたたかさは、*10 年たった今でも、はっきりと私の脳裏にやきついており、この10年間そのあたたかさを何回も思い出しながら生きてきたように思う。私の腕の中にいた、そのあたたかく小さな生命は今、私の肩ほどの背丈になり、生意気な口もきく少年になってしまっている。産まれてすぐに私の食べた食物を母乳にしてのませ、少し大きくなれば毎食毎食食物を調理して食べさせ、それがこの子のひとつひとつの細胞を作り、3キロにみたない子が25キロにもなったかと思うと、当たり前といったらそれまでだが、食物があたえられたこと、消化し血や肉にかえられる健康があったことなど自然界の摂理というか、何者かにひれふしたいような気持ちになる。

 産まれてからではない、産まれる前から私の食べた食物で育っていたんだっけ……その子どもの健康な細胞ひとつひとつを作った食物は何を選んだらよいのか、良き指針をくださったのが、ヨガの壱伊先生という方だった。先生との出会いは……といっても私が一方的に存じあげていたのだが、大学の時、休みのたびに、バイトしたお金でよく行っていたヨガ道場であった。そこで先生は幼児や障害児の合宿のようなものをご指導なさっており、妊娠している人のクラスも持っていらっしゃることを知り、先生のお話に感動した当時20才だった私は、将来もし妊娠するような事があったら必ず先生の所で勉強しようと決めてしまったのである。ところが私は東京に住んで、先生のクラスに出席する妊婦になろうと決めていたのに、私が妊婦になったのは、なっなんと南の果ての沖縄であった。それも信じられないほどの田舎で、家は60年以上も前のもので窓ガラスはない、網戸はない、家の中はかまどのすすで真っ黒というすさまじい所であった。

 夜になると100匹はいるであろう『ガ』の大群が、網戸がないため家の中に入ってくることもあり、夫は「日本製は弱くてだめ」といって、アメリカ製の怖そうな国防色のフマキラーのような殺虫剤で『ガ』を打ち落とすのである。ちなみに夫の職業は漁師ではなく中学の教師である(念のため)。

 私は打ち落としたすごい群れをほうきでザッザッと集めながらお腹に赤ん坊がいたらまずいなあと思いつつ、おそろしげなフマキラーをまく時だけは、吸い込まないよう口をおさえて外に避難し、夜な夜な『ガ』の掃除をしていた。もうひとつ東京では、考えられないのが『ハブ』の存在だった。なにしろガラスも網戸もないのだ……大家さんが「ハブが家に入るといけないから家の周りに除草剤まいといたからね」とにこにこして言うのである。こちらの水道は上水道でないため、雨が降ると簡単に土に水が入り込み、飲み水はコーヒーのような色に化してしまうのだ。

 本土からきていた人は農薬なども土と一緒に水に入り込むのを恐れていたが「その上除草剤かーここはどこの国、たしか日本だよね」って私はもう顔がひきつりそうになったが、ハブも怖いしもうなんとでもなれと開き直るしかなかった。それでも真夜中、トイレは外にあるし、ハブをふんだら噛まれると聞いていたので、近眼の私は必死にメガネをかけ、懐中電灯を持って恐る恐るトイレに行き、やっと着いたと戸を開けるとゴキブリや、ヤモリやその他のあまり気持ちのよくないもの達がごそごそとはいずり回っているので、もう泣き出したい気持ちであった。

 そんな生活でも、近所の農家の人達はやさしくあたたかで、遠い本土からひとりで来て、*かわいそうにと、毎 日10個ぐらいパインが届くのである。いくら大食いの私も10個は食べられず中学生がよく遊びにくるので身はジュースにして飲ませ、皮は分厚くむいて、うちの前は山羊小屋で山羊が皮をあまりにもよろこんで食べるので、私の当時の生きがいのようにして食べさせたりした。みかんの木もたくさんあり、ほおかむりの、みかんもぎの姉さんをしたこともある。

 そんなくらしの中で私のお腹に到が宿り、私の体はなんとも調子が悪く、胃がまるで働かなくなり、それはひどくなっていった。つわりである。そんな時、夫の学校は冬休みになり正月は私の東京の実家で過ごすことになっていた。私は這ってでも、洗面器を抱えてでも行くぞと意気込んでいた。やっと実家に戻った私は、あいかわらずつわりがひどく沖縄に帰れず、なんとそれから3か月も実家の居候をしてしまった。4月に新しい学校の職員住宅ができるまでということもあった。

 でもなんとその間に私の夢はかなった。沖縄に行った時から、とうてい無理と思っていたヨガの母体育成クラスに参加できたのである。いぜん気分はすぐれず、母は途中で行き倒れになるのではと心配したが、とにかく行きたかった。そしてそこで胎児の脳の発達のこと、そのために酸素がたくさん必要なこと、どのように酸素を取り入れるか、貧血の時はどうするか、お産に備えての体操、行動を起こす前に胎児に語りかけること、楽しい気分でいること、食事の事etc。ここには書ききれないたくさんのことを教えていただいた。なんと私はラッキー。私達夫婦は子どもに財産はたぶん残せないだろうと思うが、ここで学んだことは私の心の財産であり、無限の可能性を秘めておなかの中で息づいていた到の財産にもなったのでは、と10年たった今でもしみじみ思っている。

 胎児期の母親の食物の影響でアトピーになった子どもの場合は、治すのが大変だとよく聞くが、それほど妊娠中の母親の生活が、子どもの一生にあたえる影響はものすごいのだと思っている。胎児の一日は、生まれてからの一日の何倍かのスピードでいろいろの変化があるとも聞いている。

 人間の誕生というスタートラインに向かい、よい食物をもらい、たっぷりの酸素を吸い、*語りかけられ、愛情 の羊水の中で泳いでいる胎児……なんだか自然に守られ宇宙の子守歌にゆられて大きくなるような気がする……。

 今思うとおかしいが、私はお腹の子を「つる吉」と呼んでいた。つわりで食事がとれない時も、どんどん私から栄養を吸って大きくなる胎児。なんとなく自分の羽根を使って織物を作った『鶴の恩返し』の“おつう”を思いだし、ひどくやせた私は、お腹の子を「つる吉」とした。例えば「つる吉散歩に行くよ」とか「つる吉お水飲むね」とか。3か月たちお腹のつる吉とともに沖縄に帰った私は、3か月前の私とは比べられないほど強くなっていた。つる吉が一緒だったからである。「つる吉!つる吉」と呼んでいるうちにお腹の子なのに、本当に仲のよい友人とともにいるような感じで、だれもいない山の中で私はよくヨガをしていたのだが、そこにちょっと知能に障害をもった180センチくらいの背の青年がふらっとやってくることがあった。

 3か月前にも、よくその青年が私の家をのぞいたり、入ろうとしたりすると、怖くて飛び出す準備など必死にしたのだが、つる吉と一緒だと思うと「オッス」などと言って話もした。自分でもたいしたものだ、母親は強しとはこのことかと感心?した。また地の利を生かし、沖縄は空気が良いのでたくさん深呼吸したり、山があるのでいっぱい歩いたり、きれいな海を見たり、ハブや水など大変なこともあったが3か月前とは随分違った目で周りを見つめだしていた私を思いだす。そして7月の出産は、夫が夏の間研修で東京にいることもあり、実家でむかえることになっていた。飛行機が予定日の40日をわると乗れなくなるので、私は東京に戻りまたラッキーなことにヨガのクラスに参加し、出産前の大切な時期を過ごすことができたのである。8月になり名前のごとくツルリと出てきてくれた、つる吉……今では到という名前をもらい元気がとりえのような少年になっている。

 実際、子どもが産まれ、私はまたもっと強くなった気がする。この調子で強くなったらどうなるのかとも思うが、必ずしも悪い強さではなく、まず人間として、そして女性として母として妻として生きていくための、よくいえばしなやかな強さのような感じでもある。 この強さはもしかしたら他の女性は、初めから持ちあわせていたかもしれないが、私にとっては、現在2人の子がいるが、この2人からもらったような気もする。

 これからこの子どもらが巣立つまで私は何をもらえるだろう………。

 そして子どもたちはどんどん大きくなるが、私はあの一番はじめのほっぺのぬくもりを大切な思い出としている。

 この10年間私を支えてくれた夫や私の両親、2人の子どもの到とのぞみ、先生や友人に心を込めてありがとうと言いたい。そして私をお母さんにしてくれた宇宙にも………。

 あー泥まみれの息子がサッカーボールとともに帰って来た。次にいう言葉、毎日決まっている「お母さんおなかすいた!今日のご飯なに?」

 さあ!今日も頑張るゾ………。

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