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13

  

田辺 光

私たち50人の出産体験記/シオン発行より


 1990年9月。シンガポールから東京に戻って数日後、休む間もなく、夫の仕事もあり、ヨーロッパに向かいました。ロンドンのヒースローを経由して、最初に到着したのはアイルランドの西の空港、シャノンでした。そこから更に車で2時間、キラニーという美しい田舎町に辿りつきました。シンガポールの灼熱の太陽の余韻がまだ肌に残っている私には、とても肌寒く、行けども行けども広大な牧草地が、深い海の群青色のような緑を放っていました。その原野に点々と放し飼いにされた白い羊と、かつて精霊が宿ると信じられ、にょきにょきと枝を広げた巨木が、幻想的な夢の扉を開け、地の果てに迷い込んでしまったようでした。

 アイルランドのゴルフ場を回った時の事です。自然の中にあるがままに造られたゴルフコースは山あり、谷あり(時には地獄のように深い)、岩壁あり、そして岩壁の向こうは大西洋です。コースの中なのに岩壁の淵には古代の巨石が積み上げられたモニュメントがそのまま残されていました。大西洋から容赦なく吹きつける西風で数百年の間にしだいに風化されているとはいえ、威厳に満ち、ヒトがとても小さく見えました。この西風は時に俄雨を降らせ、髪も服も傘も吹き飛ばされるかと歯をくいしばっているとさっと薄日がさして大西洋から虹が浮かび上がってくるのです。

 あるゴルフ場のキャディには子ども達もいました。午後、学校が済んでからゴルフ場の手伝いにくるのです。12才のキャディは大人顔負けのアドバイスをし、将来はプロゴルファーになるんだ、と言っていました。でも、中にはお兄ちゃんと一緒について来ている4才のキャディもいて、野草の生い茂るコースで迷子になり、プレイヤーのほうが探しまわることもありました。子ども達のキャディは、せいぜいクラブを運ぶ程度の仕事をする傍らで、一同が辿り着くまでの間にちょっとクラブをお借りしてスウィングの練習です。こんな雄大なコース(日本の人工的な至れり尽くせりのコースに慣れた人ならトリッキーでちょっとサディスティックなコース)に毎日繰りだしているのですから、上手になる訳です。さしあたり東京の受験戦士予備軍の子ども達の生活からは程遠い、のどかな幸福を垣間見ました。

 こんなアイルランドの地を毎日10キロ近く歩き回っていると、夜になってなんとなくお腹が張るような感じ、が次第にはっきりしてきました。やはりそうなのかしら。生理が遅れて10日たった時です。

 9月下旬。モナコで開催されるパワーボートレースに友人がエントリーしていた関係で、*肌寒ささえ感じたア イルランドから、まだ夏の陽光が明るく輝くモナコに飛びました。世界の富豪の所有する豪華クルーザーがズラリと停泊するヨットハーバーには、スポンサー名で華やかに彩られたパワーボートが次々と到着し、ひときわ賑やかでした。美しい紺碧の地中海、超豪華ホテルやカジノ、美味しい南欧の料理、モナコ王室のプリンセスキャロラインやアンドリュー王子の出席する華やかなレセプション、そしてエキサイティングなパワーボートレースと、映画のコマがそのまますすめられているような風景ばかりでした。パワーボートは時速200キロ以上で海の上を走るので、水面を走行するというより、水面のわずか上の空気中を飛んでいるように見え、危険の誘惑も手伝ってか、近くで観戦する迫力は圧巻です。

 レース2日目、私はヘリコプターに乗り、空から見ていました。ヘリコプターは容赦なく旋回したり、斜めになったり、突然上下にふわりと高度を変えるので、内臓がそのまま口からでてきてしまいそうな、いやな気分になりました。と、その時、事故のニュースが流れて来ました。プリンセスキャロラインの夫のカショギ氏ともう一人のレーサーの乗ったボートか?……海面を見下ろすと、あの怪物のようなパワーボートが海面に垂直にグサリ、と突きささったまま、黒煙をあげるばかりで微動だにしませんでした。この事故により、カショギ氏は即死、パートナーのレーサーは一命をとりとめたものの、脊髄損傷で両下半身不随、今後一生歩くことはできない重傷を負いました。キャロラインは32才の若さで未亡人となり、モナコは国をあげて喪に服し、ボートレースは中止されました。私は、人の一生はどこで何が起こるかわからない、あまりの突然の事故に呆然とし、カショギやレーサーはもとより、その家族や友人の深い悲しみを思うと返す言葉もありませんでした。

 悲しみのモナコをあとに、北イタリアの美しい湖に辿りついた時には少し元気になり、相変わらず活動的に過ごしました。午前中テニスと水泳、午後からは電車で3,40分のミラノまでくりだし、遅い昼食とウインドーショッピング……といったぐあいでした。それから数日後、パリに着いたときにはさすがにクリームソースたっぷりのフランス料理には胸やけがして、毎日、日本食かベトナム料理ばかり食べて、それ以外は美しい壁画のあるホテルのフィットネスクラブのプールサイドでのんびりと過ごすだけでした。

 なにはともあれ、私のお腹の中で爆発的なエネルギーで細胞分裂を繰り返し始めていた小さな小さな生命と一緒に歩いた、最初の、夢のように美しくそしてまさに波瀾万丈の旅行でした。生理が遅れて1か月以上たち、産婦人科を訪れ、例によって「おめでとうございます」と告げられた時、私は喜びでもなく戸惑いでもなく、素直に受け入れるべき運命のようなものを感じました。先生はこうもおっしゃいました。「私の経験から言うとあなたのように後屈の強いタイプは妊娠しにくいのですが、よく妊娠しましたね」。

 私の中には、母性というものがあまりないのではとも思いました。旅行中とはいえ、この症状はきっと妊娠、これが妊娠と思う一方で、その一番流産しやすい初期に、あとでお腹が張るような運動を繰り返していました。“この程度の運動で持ちこたえられないのならいつかは自然淘汰される”流産の危険を受け入れていました。だから、特に大切に大切にすることはしませんでした。でも、さすがに、時差の調整によく使う睡眠薬やその他の薬、お酒だけは口にする気にはなれませんでした。だめなものは自然淘汰される、との一方で、催奇形性(奇形発生の可能性を持つ要因)には小心になり用心しました。先天異常には、その原因が遺伝的な要因やウィルス感染症、薬剤など、異常との関係が明らかなものもありますが、多くの因子が複合して、結局何が原因だかわからないケースもかなりあります。

 少なくとも薬やお酒で原因を作るのは止めよう。妊娠したのかしら、と思った瞬間に、知らず知らずのうちに決めていたのかも知れません。大学を卒業して都内の病院で形成外科医として働いてきた私は、この仕事をしていなければおそらく、一生遭遇することはなかったであろう多くの患者さんやその家族に出会いました。

 自分や夫の家系にはこんな病気のものは一人もいないのに、結婚して10年目で漸く生まれた子どもが重症の奇形児であった母親の深い深い悲しみと、それを時間の経過とともに受け入れ、普通の事として日常のなかに同化させてしまうたくましさと、同時に存在する医学の限界とその治療の難しさをずっと痛感してきました。

 その私が一妊婦となり、今、自分のお腹のなかに小さな生命が宿っているという事が、他人ごとのように客観的で物理的なことでもありました。守り育てて運命を共にしていく義務そのもののようでもありました。今でこそ大切な大切な“さずかりもの”という意識はありますが、この意識は子育ての中で悪戦苦闘して辛抱して、やっとすやすやと眠る我が子の寝顔を眺めながら次第に自分の中で育っていったものです。母性が最初から存在するのではなく、ともに育まれるものとは、妊娠したくらいでは考えもつきませんでした。

 私は胎児の状況を積極的に把握するため、まず第一に超音波によるきめ細やかな胎児診断、第二に染色体検査、を受けました。無論これですべての異常がわかるわけではありませんが……。

 超音波は、通常の診察でも行なわれますが、私の通院する産婦人科では技師さんが単に児頭径や長管骨の計測をする程度で、おおいに不満でした。幸い兄が産婦人科医であったので相談したところ、8ミリビデオを持って来いと言われました。兄の病院に行くと、超音波の画面とビデオを接続し、これがまだ見ぬ赤ちゃんかと思うほど鮮明な顔や体、心臓の躍動、指しゃぶりや胎動まで、くっきりと描写しビデオ記録にまで残してくれました。超音波のプローブをあてる医師の技術で、こんなにも情報量が違うのかと感激しました。

 更に私は、超音波による胎児診断でかなりの数を手がけていた医師の診察をも受け、外表、心臓、骨格、神経系などに異常がないことを確認しました。染色体検査は、染色体異常によるダウン症(染色体の数の異常によって起こる病気の一つ。母親の年齢が高くなると頻度が増すといわれている)などが高齢になればなるほど出生率が高くなること、この検査に伴う羊水穿刺術(子宮内の胎児の状態を知るために行う)が超音波画像の著しい発展に助けられ、経験のある医師によってかなり安全に施行できるようになっていることから、検査そのものには抵抗がありませんでした。

 私がこれほどまでに胎児診断にこだわったのは、誰しもが持つ“健康で元気な赤ちゃんを産みたい”という一妊婦としての思いと、形成外科医としての経験の蓄積がある以上、これらの胎児情報は努力すれば得られるのにそれをしないのは、私にとっては重大な義務違反だと感じたからです。では、異常が見つかったらどうするのか?という難問をあらかじめクリアーした訳ではありません。胎児治療の学会報告はあっても、現実的には非常に難しい。しかし、少なくても私にとっては後になって知らなかったでは済まされないように思えました。

 発生学の教科書には、「発生とは、精子による卵細胞の受精に始まり、死に至るまでの継続的な過程である。単細胞である接合子が、多細胞から成る成人したヒトになるまでの変化と成長の過程である。出産は発生過程における画期的な出来事であるが、これによって発育が終了するわけではなく、成長とともに重要な変化が起こることを忘れてはならない。発生期間は出産を境界として、出生前prenatal、出生後postnatalとに区別される。出生前期 間においては、初めの8週間に劇的な発育の進行が起こり、主要臓器の初期段階が形成される」とあります。

 私はこの、前にも後にもあまり経験しないような美しいアイルランドの自然やあるがままの子どもたちの笑顔、モナコで起こった突然の悲劇的な事故や、北イタリアやパリでの贅沢な時間などなどが、いつまでも透明に輝くかのように記憶の中に残って消えないのは、これと丁度時期を同じくして、生涯の中で最も劇的な変化をとげている生命をすでに受胎していた歓びそのものを、じつは目に見えるものに置き換えたものだから、と思います。

 すでにこの時期から4年たち、その間、それまで何不自由なく順風満帆できたわがままお嬢さんお母さんの私にとっては、それこそ天と地がひっくりかえるような思いがけない体験をしました。夫とは離婚し、まだハイハイもままならぬ我が子を一人で育てていこうと悲愴な覚悟を決めていた時、健康そのものであった敬愛する父が病気で倒れたことでした。モナコで見たあの事故が、こんな思いもよらなかったことを暗示するかのようでした。

 時間には不思議な治癒力がありますが、子どももまた、私を手こずらせることで、辛抱して、もう少し辛抱して、あとちょっとだけ辛抱することを教えてくれました。

 妊娠中に夢見ごこちで受けたヨガのレッスンも、我が子がこの世の中に私の中からつるんと出てきた瞬間も、おっぱいを飲んでいた赤ちゃん時代もあっという間に過ぎてしまいました。できることならこんなにすばらしい神様からのギフトをもう一度授かってみたいな、と思います。でもシングルマザーじゃ、ちょっと無理かな………。

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