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08

 

中原眞沙江

私たち50人の出産体験記/シオン発行より


 私には、長女恵子と、長男隆裕というふたりの子どもがいます。チョコレート膿腫(血液でチョコレートのような色をしている卵巣膿腫のひとつ)で、左の卵巣を切除してしまった私にとってふたりは、文字どおり大切な「授りもの」なのです。

 長女を妊娠した時は、まだ山口県で小学校教員をしていました。仕事に熱中していましたし、主人と私の実家もすぐ近くにあり、なんとかなるとひどく暢気で、お産についても全く無知でした。長男の時は、友人に壱伊スタディハウスを教えてもらい、妊娠中はもちろん出産後もヨガをしながら、出産育児に関する基礎知識、食事指導、その他育児に関するいろいろなアドバイスを受けながら、ゆったりとおちついた気持ちで過していきました。子育ては、子どものいない頃想像していたのと違い、大変なことも多いですが、母を頼りにニコニコ笑って走ってくる子どもを見るといろんな苦労を忘れて、母になれて良かったという喜びもわいてきます。まだまだ子育て真最中ですが、出産、育児を通して少しずつ成長していく自分にも気づき、ありがたく感じる今日この頃です。

 さて、恵子を妊娠したのがわかった時、もう天にも昇るくらい嬉しくて、うわずった声で、主人、主人の両親、私の両親に電話をしたことを昨日のように覚えています。どちらの両親も近くに住み、また助産婦の伯母が、私の時同様、私の子どもの出産にも立ち会ってくれるというので、心強く、それから先のこともなんとかなると暢気なものでした。その頃私の勤めている学校は、文部省の研究指定校で、3か月後に研究発表大会を控えていて、帰宅時間は遅く、家に仕事をもって帰っていました。

 しかし、まもなく始まったつわりは、私が想像していた以上に辛いもので、水を飲んでも吐き、吐くものがない時は黄色い苦い液まで吐いていました。それでも仕事をしている時は何とかがんばれるのですが、休憩時間は最悪でした。妊娠した途端、上司が「この忙しい時に…」という感じで、態度がガラッと変わってしまい、以前のように身軽に動きまわれない自分が辛くて悔しく、「ようやく、あなたもそれが分かるようになったね」と先輩の先生から言われ、仕事も家庭も一生懸命両立させていっている先輩たちを改めてすごいと思いました。今まで熱中先生なんて言われていい気になってバリバリやってきた私にとって、妊娠と同時に全く変わってしまった世界で、それを乗り越えていかなければ真の教育者になれないのかと思ったりもしました。

 3か月の健診の時、首をかしげた先生が、すぐ超音波をとってくださいました。「卵巣が腫れている。これは妊娠したのが原因であるのか、今はわからないので、1週間おきに見せてださい」……これも婦人科のことに全く無知だった私を驚かせました。

 1か月後、卵巣の大きさは変わらなかったので手術しないことになりました。超音波の画面で、もう一人前に人間の形をして動きまわっている我が子をみてホッとしたのもつかの間、実家の母が交通事故で入院したり、主人が東京研究所に転勤になったりと、今思っても次々といろんなことがあった時期です。なんとか学校の研究発表大会をおえ、入院中の母のことが気にかかりながら、単身赴任していた主人を追って上京したのは、もう6か月中頃でした。まずは病院を探し、何を用意すれば良いかということさえわからなかったので、保健所と病院の母親教室に参加しました。

 勤めている頃は、当然紙おむつでと思ってたのに保健所で習ったおむつ作りがおもしろくて、一気に70枚縫いました。結局、外出の時以外はふたり共この布おむつを使用しました。産まれるまでは便のついたものなんて…と思いましたが我が子のものは触れられるものなんですね。母乳便は甘ずっぱいにおいがして、また便のようすがよくわかりました。長女は1才4か月、長男は2才1か月でおむつがとれましたが、それまで我家のベランダのさおで毎日ハタハタと泳いでいました。また短着、長着、その他ベビー服までせっせと縫ってはながめてニコニコ笑っている私をみて主人は「子どもは母の着せ替人形みたいだね」と言いました。

 里帰り出産を目の前にした、35週目に水痘(水ぼうそう)になったので、里帰りせず東京で出産することにしました。39週目破水、すぐ入院しましたが、なかなか陣痛がおきず、夜促進剤を飲みましたが、薬があわなかったのか、ひどく吐いてしまいました。翌朝は赤ちゃんの頭はおりているが子宮口が開かないという状態で夜9時すぎに、ようやく子宮口から赤ちゃんの頭がのぞきました。助産婦さんが鏡でみせてくださったので、「ぎり(つむじ)が二つありますね」と言うと「それくらい冷静なら大丈夫」と言われましたが、母子手帳に22時間と書かれたこの出産は、いきんでと言われても、もう力が入らないくらい疲れきってしまった出産でした。苦労して産まれてきた長女は、とても元気で病院でも有名になるくらい大きな声で涙をふきとばしてよく泣きました。

 恵子が1才半の時、左の卵巣を切除しました。再発しやすく、再発したら子宮を取り出すしかないと言われました。ひとりっ子になるかもしれないと覚悟していましたが、ボンゾール(子宮内膜症の治療薬)を半年服用して、もう妊娠しても大丈夫と言われてからあまりたたないうちに隆裕を妊娠しました。妊娠したのに気がつかないで重い荷物を運んだりしたので、よく流産しなかったと後で胸をなでおろしました。

 主人がとても喜んで、お休みの日は長女を連れ出してくれたり、つわりの間もむりして、早く帰ってくれ、家事を手伝ってくれました。先に第2子を出産した友達がヨガのことを教えてくれました。恵子の出産があまりに大変だったのと、卵巣膿腫を再発させたくないので、もっと勉強したいと思いすぐ通いはじめました。はじめてヨガをする私は、ほかの方のように、うまくポーズをとれませんでしたが、明るく落ちついた雰囲気の中でゆっくりと体をのばすと気持ち良く、家でも毎日しました。

 2時間のヨガの間、恵子は、先生にすっかりなついて、遊びやその他いろんなことを教えてもらっていました。「青いお野菜を食べよう」「根っ子のお野菜」とか詳しくなって祖父母を驚かせました。上の子の心理、接し方を教えていただいたことは、下の子を出産してすぐ役に立ちました。また毎日の食事を細く記録して指導していただくのですが、青い野菜が少ない、朝食に比べて夕食の比重が大き過ぎるなど、今までの食事法の欠点を指摘、アレルギーの子どもを産まないための注意なども教えていただき、私も自然食品等に興味をもつようになりました。これらは妊娠中のみならず普段の生活でもおおいに役立っています。

 里帰りしていよいよ隆裕の出産の時がきました。恵子の時と同じく微弱陣痛(陣痛の強さの分類で収縮の弱いこと)で、促進剤を使うことになりました。でもヨガのおかげで呼吸が楽で体もリラックスしているのか、いきみをのがすのが上手とほめていただきました。後で聞いた話ですが、長男は産道に入る時頭のむきが悪くうまく回転できず、あごがひっかかってなかなかでてこれなかったそうです。しかし、私自身すっかり落ちついて、助産婦さんの言われるとおり、いきむことができ、隆裕が産声をあげた時、見学にきていた婦長さんや看護学校の生徒さんたちが拍手してくださって本当に良い出産ができました。ふたり共、1か月までは、母乳の出があまり芳しくなく、やせっぽちでしたが、その後「質の良い乳がたくさんでている」と小児科でほめていただくほど良くでて、恵子は1才ちょうど、隆裕は1才4か月で断乳しました。

 たったふたりだけの経験ですが、人がなんとかしてくれるという消極的な出産と、私が良いお産をするためにという積極的な出産とは大違いだと思いました。そして気軽に何でも相談できる先生と知りあえたことは、核家族の我が家にとってとてもありがたいことでした。また主人が、妊娠、出産、育児を通して支えてくれているから、いろんなことがあっても乗り越えてきたし、今からもがんばれると思います。残念なのは、どちらの子の時も主人に立ち会ってもらうことができなかったことですが、どちらの子にも父親だとわかるんだという顔をして新生児がじっと父をみつめている写真があります。妊娠、出産と同時に親になるのではなく、毎日の小さいつみ重ねの中で、親も子も成長していっているように思います。元気なふたりの子どもたちに囲まれ、幸せな毎日を過させていただいております。

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