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03

安藤真由美

私たち50人の出産体験記/シオン発行より


 私の妊娠を一言で言えば、「計画的高齢初産」ということになるだろうか。38才7か月での初産であった。

最近何かと話題にされる出生率低下の原因に、私も幾つか心当たりがある。遅い結婚、仕事と子育てとの両立の難しさと、そして子どもの将来への不安等々、私達夫婦は、子どもについては、とうに選択段階に来ていた。周囲には未だ独身者、子どもの居ないカップルが多く、このままの状態でも良いと考えていた。私などは「子どもはまだ?」のおきまりの質問に「子どもは嫌いだから」と答えたものだ。それが一転して「子どもをつくろう」と決めたのは、私以上に子どもが苦手と言っていた夫が「子どもがほしい」と言い出したこと、そして同じ頃私も仕事に一区切りがつき、そろそろ肉体的タイムリミットを感じていたためである。

 それ迄、現代医学の進歩から、この年齢での出産に不安はほとんど持ってなかった。事実、私の職場では女性が多く、40才前後での出産はよく耳にしていた。ただ、どんなに健康体であっても、35才、そして40才を過ぎる毎に、先天性異常(生まれたときからある異常や奇形)が出る確率が高くなる等の、高齢での妊娠がもたらす諸々のリスクはやはり気になった。しかし、出産後に予想される数々の困難をも含め、私達は挑戦することに決めた。 そしてほぼ計画通りに妊娠。その時の感動はと言えば、自分でも確信してはいたが、医師からの「おめでたです。おめでとうございます」というやさしさのある言葉を期待していた私は「妊娠です。それでどうしますか」にいささかあわててしまった。思わず「いえ」そして「産みます」と力んで答えたのであるが、近頃ではいちがいに「おめでた」とは言えない状況なのだろうかと考え込んでしまった。そんなことで「妊娠の喜び」はその後、超音波で画面に映し出された、未だ姿も定かでない小さな命の鼓動を確認した時であった。

 こうして、私達夫婦のマタニティライフが始まった。

 よくよく悩んだ末の、おそらく最初で最後の妊娠・出産となるだろうから、無事出産迄、*3人のために出来る ことは何でも前向きに取り組もう、というのが夫婦の気持であった。 その一歩が積極的な出産をするための病院選びであった。出産方法をふくんで、現在はかなりの選択肢がある。一般的な病院での出産でも、設備、そして病院・医師のポリシーの違いによって満足度にかなりの差があるように感じる。

 私が経験者からのアドバイスや雑誌等からの情報によって考えていたことが幾つかあった。例えば、「高齢出産者が多い」「総合病院である」「妊婦主体の出産が出来る」「夫の立ち会いが可能」などがそれだ。しかし、初診時の請求金額に驚いてしまい、これでは安易に病院を変えることは出来ないから、事前のチェックは必要と思った。

 こうして選んだ病院に出産後も現在に到るまで子どもの検診等で利用しているが、ハード・ソフト両面で感心することも多く満足している。新しいということもあって、設備の細かいところまで、妊婦(患者)への心配りが感じられた。

 「出産率低下」と言われる割にはいつも混んでいた外来の診察室は、ドアによって各自のプライバシーが守られ、診察台にはカーテンがなかった。伸縮自在な布で腰をおおうだけで医師としっかり対面するのである。

 私もそうであったように、婦人科に行くのがおっくう、という女性は多いと思うが、その理由の一つはあのカーテンだったのでは、とその時感じた。自分の見えないところで診察が行われて、その上医師の顔も見えず、会話も遮断されているということで、不安感、不快感、不信感だけが募り、何とも言い難い気持ちでいっぱいになってたということはなかったか。そして分娩室と病室は、一見して普通の病室といっても造りはホテルのようで、いざ出産となるとベットが分娩台に、天井、クロゼット等から必要機械、器具が現れるという仕組のLDRだ。つまり、長く苦しい陣痛の時から、出産そしてその後の手当てまで同じ部屋で過ごせるというわけだ。

 私は結局この部屋で約8時間過ごしたのだが、そのうち6時間は助産婦さんに励まされ、*夫には後に「一生分 」と言われる程に背中をさすってもらいながら、座ったり、横になったりとベッドの上で陣痛と闘った。その間、ずっと聞こえていたのは、家でも聞いていた有線放送のクラシック・チャンネルだった。途中から気がついたのだが、ベッドの足元側にある洗面台の扉から鏡が現われていて、私はいきみながら我が子の頭が出て来る様子を確認することが出来た。しかし、それまで以上に破水してからも時間がかかり、私の疲労も限界に近づき、このままの状態での自然分娩が無理になったため、部屋は分娩室に早変わりし、医師により会陰切開がなされてやっと子どもの頭が出て、出産となった。生まれて来た子が男の子と教えてくれたのは夫で、胸の上にその重みを感じた時は、それまでの14時間は夢のようであった。そして私の処置の後、約20分程、親子3人だけで過ごすことが出来、また感激も新たになった。初乳を含ませて初めて母親となったことを実感し、夫とこれで家族となった喜びを分かち合った。

 まさに親子3人で乗り切った出産であった。

 病室は個室で、出産の翌日から母子同室となり、夫の面会時間も自由だったので、まるで家に居る様に過ごすことが多かった。この様に設備のみならず、心憎い配慮の数々は病院のポリシーによるものであろうが、スタッフの取り組みにもそれはみられた。母乳による授乳に熱心であったし、医師の短い診察時間を看護婦が充分にカバーしていた。振り返ってみると、積極的な出産をするのに、充分な環境づくりであったのだ。

 なぜ助産院での出産を選ばなかったのか、ということも付け加えておこう。助産院であれば、一貫して助産婦さんと関わってもらって出産を迎えることが出来るという理想的な形だが、やはり私には高齢初産ということがネックになった。幸い妊娠中は何の問題もなく過ごして来たが、出産時は全く自然分娩というわけにはいかないだろうと考えていた。実際予定日近くになってもその兆候が全く現われないので、弛緩剤を打ち、出産時には会陰切開をせざるを得なかった。私にとっても子どもにとっても、出産時における緊急事態発生を考えての選択であった。

 充実したマタニティライフの日々が送れた理由の一つには、出産2か月前まで、仕事を続けたことだろう。これは会社の妊娠中の特別処遇と夫の協力と助けがなければ出来なかった。現場職からデスクワークへの配置転換は通勤時間帯緩和の点からも、たとえ通勤に片道2時間を要しても続けられた大きな理由である。そしてこの通勤も、幸い夫と一緒であったから、あの通勤地獄を何とか乗り切れた。新しい職場環境での緊張と挑戦は、時には子どもへの影響を心配する程、精神的疲労に襲われることもあった。

 また、16時間、土、日、休日、昼夜のない生活から一転して、起床、就寝、三度の食事時間の規則正しい生活は、私達母子にとって一番必要なことと思いつつも、今もって慣れていない状況であるから、当初は本当に苦労した。それも、結婚して初めて、夫と毎日顔を合わせるという生活の中で励まされ、気分転換が図られ、休日にリラックス出来る様になって余裕も出て来た。通勤も運動不足を補う結果となった。

 仕事をしている間は、あまり自分が妊婦であるという自覚がなかったので、本当の意味でのマタニティライフは産前休暇に入ってからの2か月のことになるだろうか。この間に、何かそれらしいことを、と選んだのがマタニティヨガであった。呼吸法は出産時に絶対不可欠な要素と考えて、スイミングもエアロビクスも下手であった私は、ヨガを選んだ。プログラムは妊娠初期の時点から組まれていて、私が取り組んだ時は既に後期に入っていた。やはりすぐに出来ることではなかった。それでも先生の熱心な指導で、腹式呼吸もなんとかマスターし、予定日の週には、まさかと思っていた「ブリッジ」のポーズまで出来てしまった。そして心身のリラックスと呼吸法は本番で充分役にたった。

 これもまた初めての一日中家にいる生活も、意外にも規則正しい生活が保たれ、今のうちにと始めた大清掃等でめまぐるしく2か月はアッという間に過ぎてしまった。そんな中で、夫と生まれて来る子のことを、あれやこれやと想像して話し込んでしまうのが、楽しい時間だった。お腹の中で動きを感じた時から名前で呼んでいた我が子も、この頃には充分にその存在を示して来ており、私達は幸せの絶頂にいた。私はもうしばらくこのままお腹の中に居てくれても良いとさえ思った。

 今、息子は10か月だ。大柄の父母に似ず、小さく生まれ今も並の体格だが、何ひとつ心配事もなくすくすくと元気に育っている。これは高齢初産であった私達にとって最高の贈り物だ。

 初めての妊娠、出産を経験してみると、出生率の低下につながるその不安材料は、自ら出産することにより解決していけるのではと感じている。

 子どもが生まれて、私はますます仕事をしたくなった。職場復帰まであと8か月。今度は親子3人、手をつないで歩いて行こう。

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